千葉妖怪伝説「その十一 遊女おかねの悲劇」

 様々な文献を読んでいると、断片的な情報しか残されていない伝説の記載に、行き当たる場合がある。昨年、私は「行徳昔話の会」が発行した「行徳の昔話り」という文書を読んでいて、奇妙な記述に目を奪われた。

 内容を概略で説明すると、海神下から二俣にかけて「葛飾田んぼ」という長い道があった。そこを夜、歩いていると、可愛い娘が前になり、後になり着いて来るという。

 娘があまりに可愛いので振り返ると、海際まで連れて行かれてしまうらしい。

 特に船橋遊郭で遊んだあとの、着流しを着た粋な男が狙われたという。周辺の住民からは「おかね塚の幽霊」と大層怖れられていた。

 何の特徴もない”ありがちな話”だが、いくつか謎がある。

  • 何故この女の幽霊が出るのか?
  • また何故、おかね塚の付近に出るのか?
  • 更には何故着流しの男を狙うのか?

 以上が不明な点である。

 とにかく、女の幽霊が出るという”幽霊談”のみが伝承されており、幽霊出現に至った因縁話が不明である。 こういう事例は他にもある。船橋市の豊富には

「おせんじょろうという山に、女の幽霊が出た」

という伝承がある。

 しかし、いくら古い文献を調べても「おせんじょろう」という地名は出てこない。私が思うに「山におせんじょろうという女の幽霊が出た」という怪異談が、時間と共に変質してしまったのではないだろうか。つまり「おせん女郎」という女幽霊の名前が、地名にされてしまったのではないだろうか。この案件は、今後も調査を続行する。

 このように、話の起承転結が破綻していたり、話が部分的であったりする伝説は多い。こういう場合、私が行うのは徹底した現場周辺の聞き込みである。今回も現場に行ってみる事にした。

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 行徳4丁目に「おかね塚」は現存する。小さな共同墓地の一角の石仏が、おかね塚なのだ。お参りに来ていた人や、近所の人の証言、「行徳おかね塚の由来の碑」の既述を、もとに話をまとめると、以下のような由来が明らかになった。

 昔、吉原に「かね」という遊女がいた。その「かね」は、若い船頭と愛し合い、かねの年季があけたら、夫婦になる約束を交わした。数年後、年季があけた「かね」は、船頭と約束した待ち合わせの場所で待っていた。しかし、いくら待っても船頭は来ない。男に捨てられてしまったのだ。そしてそのまま「かね」は病になり、男との結婚の約束を夢見ながら、命を落としてしまった。

 この話を聞いた吉原の遊女たち100余人が、仲間である「かね」の供養を願い建てたのが「おかね塚」の由来であるという。

 この二つの話を合わせて、ようやく概要がはっきりした。

 つまり、娘の霊とは「かね」であり、船橋の遊郭帰りの着流しの男を狙うのは、待っても待っても、こなかったかつての恋人を慕っての事であろう。海際に連れて行くのは、男が船頭であったから、男と共に夫婦でどこかに行きたかったのかもしれない。何やら胸が締め付けられるような話であるが、遊女の悲劇的な伝説は多い。

 先日の池袋で行った史跡調査では「お茶あがれ地蔵」という場所をフィールドワークしてきた。これまた結婚の約束を反古にされ、亡くなった遊女の幽霊が「お茶あがれ」とささやくという悲しい伝承が残っている。ちなみに「おかね塚の幽霊」は昭和初期まで出ていたという。時間という流れの中で彼女は今も彷徨っているのかもしれない。


ご注意:
上記の記事は、地域情報サイト「まいぷれ」で掲載されていた「千葉妖怪伝説」というコンテンツを転載したものです。記載されている内容は、当時のものですので、現在の情報とは異なる可能性があります。ご了承ください。

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