千葉妖怪伝説「その三十一 宮本武蔵は本当に船橋に来たのか?!」

 剣豪・宮本武蔵。日本人なら誰しも聞いた事のある名前である。大河ドラマになった事も記憶に新しい。その武蔵が船橋に来たという伝説がある。吉川英治の小説「宮本武蔵」のワンシーンに、「武蔵が巌流島の決闘の前に、養子・伊織(弟子でもある)と共に、法典ケ原の夜盗どもを切り伏せる場面」がある。それが現在の船橋市の「船橋法典」であるというのだ。

 勿論、この伝説は近年創作されたものである。というか、吉川英治が船橋に来て、触発され小説として昭和期に、創作したエピソードなのだ。それが何故だか、古来からあるような伝説として伝わっている。

 例えば、「法典の昔話 高橋久雄 昭和58年5月1日 新報社」によると、宮本武蔵が行徳の徳願寺を訪問、藤原玄信と名乗り、僧衣で全国を廻っている最中の事である。その頃の武蔵は一刀三拝(一回刀を振ると、三回拝むという気持ち)の精神で、護身観世音像を持ち歩いていたという。驚くべき事に没年も伝わっており、正徳2年7月24日75才で亡くなっている。また「藤原新田」という地名はそこから来ているというのだ。吉川英治の小説には夜盗を切り伏せたとあるが、実際の武蔵は農民に混じり、伊織と農業に励んだらしい。

 更に徳願寺には武蔵の描いた絵があるという。同寺は、徳川家康の「徳」と本寺の勝願寺の「願」をとり「徳願寺」と名付けされ、1610年に建立された。ここに武蔵の筆による「八方にらみのだるまの絵」が奉納されている。また山門の左手には「武蔵の供養塔」があり、江戸時代行徳の名物であった「笹屋うどん」にも、武蔵が立ち寄った伝説があるという。

 これは奇妙な話である。昭和時代に吉川英治が作ったエピソードの「法典ケ原の決闘」に対して、詳細な事実としての武蔵伝説が語られている。これはいったいどういう事であろうか。

 実は徳願寺と法典周辺は関係が深い。現在の船橋法典周辺は徳願寺の檀家が開拓したエリアであるのだ。であるからして、同じ武蔵伝説があっても不思議はない。このように、昭和に作られたエピソードがまるで数百年の歴史がある伝承のように一人歩きしているのだ。まあとかく伝説とは、創作が定着したり、事実が湾曲して伝承されたりして後世に残っていくものだから、これはこれで民俗学的にはOKであろう。(歴史学として問題だが…(苦笑))

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 多分もこれは筆者の推測だが、藤原玄信という人物の伝説は、元々藤原新田周辺に元々あったものだろう。その既成の伝承に、巧妙に武蔵伝説が練り込まれていき、新しい20世紀の伝説ができてしまったのだと思える。

 だって滝沢馬琴の小説「里見八犬伝」の創作エピソード伏姫がくらしたほら穴さえ、現代では現実に存在する。これなども、明治・大正あたりに、小説から伝説が創作されたのであろう。

元々、吉川英治は一年予定で『宮本武蔵』を連載していたが、大評判となり、新聞社から連載を3年間に延長されてしまった。そこで本来は関ヶ原より、東に行った事がない武蔵を関東まで旅をさせたのだ。吉川英治の創作により、武蔵は中山道をめぐり、吉原で遊ぶ。そして、船橋ほ法典ケ原で夜盗と戦う事になるのだ。

 当初、習志野ケ原で武蔵が夜盗と戦うというストーリーを吉川は考えていたらしいが、習志野という地名が明治以降に成立した名前と聞き、法典ケ原という架空の地名をつくりだしたのだ。ところが、後から本当に「船橋法典」という地名ができてしまった。事実が小説に追いついたわけである。

 事実は小説より、奇なりとはこの事である。


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上記の記事は、地域情報サイト「まいぷれ」で掲載されていた「千葉妖怪伝説」というコンテンツを転載したものです。記載されている内容は、当時のものですので、現在の情報とは異なる可能性があります。ご了承ください。

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