千葉妖怪伝説「その三十二 義経・頼朝と千葉の因縁伝説」

今、タッキー演じる「義経」が好評だ。かくいう筆者も毎週楽しみにしている。この日本人にとって最大のヒーローともいえる源義経。彼と千葉県の関係は若干ながら伝えられている。平家を討ち果たしたものの、兄・頼朝に疎まれ、西国の落ち延びようとした義経主従であったが、そこに船幽霊が立ちふさがる。舟の周りを取り囲むのは、壇ノ浦で沈んだ平家の亡霊たちであった。

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 弁慶の機転で、どうにか切り抜けるが、それで諦める平家の怨霊ではなかった。なんと舟の同乗していた義経の愛犬「犬若」に憑依していたのだ。唸りをあげて襲い来る「犬若」。かわいがった愛犬を斬る事もできず、義経は泣く泣く愛犬を奥州への海路の途中置き去りにしたという。なんとそれが千葉県の犬吠埼だというのだ。その後、主人の捨てられた犬若は泣き続け、七日目には悲しみのあまり岩になってしまったらしい。今も犬吠埼には犬の形をした岩がある。勿論、この犬吠埼という地名も「犬若が泣きじゃくった事」からついたとされている。まさか本当ではないだろうが、どうも我が千葉県は義経にとってげんの悪い土地のようである。それは何故であろうか。図らずも千葉県は、宿敵である兄・頼朝のホームタウンだったのだ。

 次は千葉県がどういう経過で頼朝のサポーターとなり、鎌倉幕府設立に貢献したのか説明しよう。

「平家であらずは人でなし」

この横暴には源氏、藤原氏ならずとも、皇族さえも嫌気がさしていた。その急先鋒が以仁王である。この親王に近づいたのふぁ、源頼政であった。平治の乱では源氏方で唯一平清盛に寝返り、平家にへつらう事で命を生きながらえていた武将である。この一族さえ裏切った頼政さえも、平家の専制政治には義憤が爆発してしまった。

 そして、彼は老体にむち打って打倒平家の書状を親王の名前で各地の源氏にしたためたのである。だが計画は露見し、平家の平知盛、平重衡、平維盛らによって頼政軍は追われ、宇治平等院付近で合戦となった。世に言う「宇治川の合戦」である。頼政以下奮戦するものの、多勢に無勢。等々敗北してしまった。

 この時、頼政に付き従っていたのが、千葉介常胤の息子の日胤である。日胤は僧籍であったが、宇治で見事に闘い戦死した。千葉常胤一族は、武士らしく散った日胤の供養のために印旛に円城寺を建立した。

(異説ではこの時一緒に、宇治で死んだ頼政の首が千葉に持ち込まれ、印旛に埋められたと言われている)

 名将・千葉常胤は、平家によって殺害された我が子・日胤について悲しみくれたはずである。間違いなく平家への復讐心がつのったことであろう。その後、千葉常胤が石橋山の戦いで破れた源頼朝は東京湾を舟で渡り、千葉県へ逃亡。その再起の時、頼朝軍のもとに駆けつけたのが、千葉常胤であった。こうして千葉県は一気に頼朝のサポーター軍団となり、平家への復讐で一致団結した一同は鎌倉に本拠地を構えるのである。

 千葉県は弟にとってはアウエイであり、兄にとってはホームであったのだ。


ご注意:
上記の記事は、地域情報サイト「まいぷれ」で掲載されていた「千葉妖怪伝説」というコンテンツを転載したものです。記載されている内容は、当時のものですので、現在の情報とは異なる可能性があります。ご了承ください。

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